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木曽義仲首塚

日本, 〒605-0827 京都府京都市東山区東山区金園町

木曽義仲首塚
墓地
3.8
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XQXH+CQ 東山区, 日本、京都府京都市
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加山哲史
加山哲史2 年前
朝日将軍源義仲公の首塚にお参りしたくて幾度か法観禅寺に足を運びましたが何時も閉まっていて中には入れませんでした。
本日(令和4年6月4日)は開いていたので初めて義仲公の首塚にお参りすることが叶いました。
前に義仲寺参詣に先だってお参りした際には閉まってたので八坂の塔の正面左側の板塀の隙間から遥拝したのですが今日は間近にお参りできて嬉しかったです。
寺院の許可を得て法華経の自我偈と普門品偈を唱えて源義仲公の御霊を弔いました。
私には八坂の五重塔の堂々たる姿が木曽義仲公の姿のように思えてなりません。
前回のお参りの時に念珠の房が切れたので今日は修理の為に安田念珠店を訪れたついでに行ったのですが、まさか首塚にお参りできるとは思いませんでした。
帰りに三条京阪からJRの連絡切符を買って東福寺でJR奈良線に乗り換え、京都で琵琶湖線に乗り換えて膳所で下車して義仲寺にもお参りしました。
清水英利
清水英利2 年前
木曽義仲は、源義朝の弟である義賢の子で、頼朝、範頼、義経兄弟とは従兄弟にあたる。幼くして父を失い、中原兼遠の手で木曽山中に育てられた。平家打倒のため兵を挙げた源頼政が戦死した治承4年(1180)に、義仲も木曽で挙兵し、日の出の勢いで平家を追討し、寿永2年(1183)京都に入り、朝日将軍と呼ばれた。  しかし、翌3年1月20日、源義経の軍勢に追われ、兼遠の娘巴(ともえ)を伴って瀬田に落ち、宇治川の戦いで敗れた。  この日、義仲(33才)、今井兼平等が戦死し、巴は御田八郎を討ち取って東国に走り、義仲の最期を遺族に伝えた。その後、病のため京都に残されていた家来の一人が、主人義仲の首をここに葬らせたといわれている。
籠谷敏明
籠谷敏明2 年前
3度訪れ3度とも閉まっておりました。
お墓参りとかで近くまでくるので、次の機会にお参り出来ることを願っております。今回は格子の隙間から写させていただきました。
Neurodom 001
Neurodom 0012 年前
法観寺の境内から行けます。
民雄
民雄2 年前
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