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大宰府学校院跡

日本, 〒818-0101 福岡県太宰府市観世音寺4丁目1

大宰府学校院跡
史跡
3.9
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GG79+WM 太宰府市, 日本、福岡県
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田口敦
田口敦2 年前
政庁通り(県道76号線)の脇に案内板と石柱が立っています。
藤原広泰
藤原広泰2 年前
大宰府政庁の東側に当たるこの地は、小字名を学業と呼ばれ、学校院があったと考えられています。
学校院は、筑前、筑後、肥前、肥後、豊前豊後の九州西国の役人を養成する機関でした。781年の学校院では、約200にんの学生が集まったとのきろくがあります。
Keiichi koyanagi
Keiichi koyanagi2 年前
学校院跡

太宰府市のWebによると、

学校院は、西国の役人を養成する機関である。

大宰府政庁の東側にあるこの地区は、 小字名を「学業」ということから、学校院があったと考えられている。

学校院では、博士を教官として、中国の「五経」「三史」等の書物を教科書に、 政治・医術・算術・文章など、役人として必要なことを学んだ。 古代の教育システムでは、通常は国(ほぼ現在の県にあたる)ごとに国博士がおかれるが、 筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後の六国には博士はおかれず、学生は大宰府で修学した。

学生は、所定年内に必要な科目を修得した後に、試験に合格すれば役人として採用される。

天応元年(781)には約200人の学生が大宰府に集まったとの記録があり、 大宰府が学問の中心地としても機能していたことを知ることができる、との事。
貴一
貴一2 年前
太宰府市文化遺産
【登録番号】F0086
【名称】学業院址碑(学校院址)
【所在場所】観世音寺4丁目
【文化遺産情報】律令制下で中央に大学、地方に国ごとに国学が置かれ、大宰府には府学校が置かれた。大宰府や管内諸国の官吏養成が目的。明経(みんぎょう)・医術・算術等を約200名の人々が学んでいた。明治末期と昭和47年(1972)に建立された2本の石碑が残っている。
森山浩司
森山浩司2 年前
大宰府学校院は「府学校」と呼ばれ、「学生」「医生」「算生」200人以上が学んでいました。彼らは西海道の六国(現在の福岡・佐賀・長崎・熊本・大分)からきた、郡司など豪族の子弟たちでした。
Northern Dancer
Northern Dancer2 年前
今は更地しかないが、位置から昔、観世音寺に隣接して存在したことがわかる。学業院中学に名前が引き継がれてよかったと思う。
平田千織
平田千織2 年前
山ノ上億良の和歌の石碑がある、
太宰府天満宮の周りの道路にある、マンホールでない石の模様の意味がわかる、
T. TAKIZAWA
T. TAKIZAWA2 年前
広大な敷地に看板があるのみ。
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