/Chiba/公園

誉田十文字第2公園

日本, 〒266-0005 千葉県千葉市緑区誉田町2丁目28−44

公園
1.5
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方向の指示
H623+5H 千葉市, 日本、千葉県
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Sakichi m
Sakichi m2 年前
遊具は動物の揺れる乗り物のみの小さな公園。だが、目の前を電車が通り、上空には飛行機が多く飛び交い、目の前の工事現場にはクレーン車やトラックの姿。乗り物好きなお子さんと乗り物を眺める、ちょっとしたお散歩にはいいかもしれない。
幕府陸軍
幕府陸軍2 年前
[十文字]の由来
現在の誉田町二丁目付近は、かつて[十文字原]と呼ばれていたという。十文字の名称は、当地公園と誉田駅から北方にある公園、誉田駅西側の踏切にその名を留める。
江戸時代(宝永四年/1705年)、地元に居住の山下氏の書き記した「形見草」(平山郷史)によれば、
『三十八 十文字原の事
此十文字原に往還の道あり貞基ハ西から東へ行せたまへる将門平親王ハ染矢川の合戦の後良文と別れそれより上総の国にきたらせ給ひ都をわけさせならの都の事なれは其名をならとつけたまい此所にそましますなり則奈良の大仏をうつし此里にも大仏を建立なされしより今に有それから佐倉へ移れたまいし時南より北へとをらせ貞基ハ西から東十文字にとをらせたまふによりて此時より十文字原と言伝たり将門ハ桓武天皇より第五代ノ皇子なり』(原文ママ)
とある。いわゆる平将門伝説の一つに数えられるのだが、将門が古都奈良に擬した此処より南方の土地に大仏を建立し、自らの本拠からそこに至るまでの道程が南北に通ったという事は理解できる。しかし、記事の冒頭にある『貞基』が、西から東へ行かせたまえる、とは一体何の事なのか。そのヒントは、この記事の前項にさかのぼる。
『三十七 野田原の事
菊地の左衛門貞基と言し公家都より上総の国山辺郡へ流人ならせ給ゐし時道行にありおり居てあそぶ鷺沼や千葉の里野田の原結び込めたる我がおもひ土気の板橋うち渡り大あみのめにもとまらぬ神のなみと有此貞基ハ郡司末光と言ものしゆごしたまふとなり』(原文ママ)
野田原とは、現在の誉田町一丁目付近であるという。『菊地左衛門貞基』なる公家が、野田原を通過して上総国山辺郡へ向かう様子が記されている。流人とあるので、何事か罪を得て流罪となったのだろうか。
そして、その二人の人物の辿った道が、まさにこの辺りで【十文字】に交差したという事が、その名の由来なのである。
この菊地左衛門貞基という人物は何者なのか、判然としない。公家に菊地姓があるのかも疑問である。しかし、系図を辿ると、この人物と思しき氏名があるにはある。それは、藤原隆家を祖とする菊地氏で、隆家から四代後にあたるという。(この説も定かではない)
将門は承平年間、貞基はそれから推定100年以上も後の事で、この2本の道は、時間軸では捻じれの位置にあるようだ。東海道の果て、当時では辺境のこの地に、滅多に訪れないだろう二人の高貴な人物が通り掛かっただけで伝説となった十文字原は、いつ頃そう呼ばれ始める様になったのか、謎が明らかにならない限り、真の意味でこの伝説は完成しないのかもしれない。
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