/Karatsu/仏教寺院

近松寺

日本, 〒847-0815 佐賀県唐津市西寺町511

近松寺
仏教寺院
4.5
37 レビュー
8 コメント
方向の指示
CXX8+W5 唐津市, 日本、佐賀県
+81 955-72-3597
karatsu-kinshoji.jp
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K N
K N2 年前
庭園は、良く手入れされていて立派なものです。休憩用のベンチでもあればいいなと思いました。
隣の資料館には、東郷平八郎や山本五十六の書が展示してあります。入場料や駐車場料は、一切ありませんでした。
のりたま
のりたま2 年前
お庭が素敵です。
初めて行った時は雨でゆっくり見られなかったけれど、二回目は天気に恵まれて一時間ほど滞在しました。
石のベンチに腰掛けて、ぼーっとしている時間は贅沢!
Nishimura y
Nishimura y2 年前
日本庭園が本当に綺麗です。車の往来がかなり多い街中なので初めて訪れる方は少し大変かも知れません。
川添智子
川添智子2 年前
3月末~4月上旬にかけて、牡丹のお花が綺麗です。
ながまあちゃん
ながまあちゃん2 年前
唐津の隠れた名所です。
「曾根崎心中」、「心中天網島」などの作品で有名な近松門左衛門の墓所があるお寺。
近松門左衛門は、福井藩士の子で京都に移住して公家に仕えたこともあるとされますが、唐津市にあるこのお寺の小僧をしていたという説に説得力があります。第一、お寺の名前からしてそうですし、そうでなければここにお墓が分祀される理由がありません。
本人は唐津出身であることを隠していて、一方「近松」を名乗り、わかる人にはわかるようにしていた。このお寺が藩主寺澤家及び小笠原家の菩提寺であり、また織部灯籠があるなどキリシタンの香りもあることから、それらが一体となって何か背景があるとも考えられ、今後の研究が待たれます。

調べてみると、長州の近松寺(こちらは「コンショウジ」と呼ぶそうです)も同じく門左衛門の出身を主張しているそう。さて、どちらが正しいのか。

お寺としては閑静な広い敷地で、ゆったりと回れます。駐車スペースもあります。
浄瑠璃愛好者だけでなく、広く歴史愛好者に行っていただきたい場所です。
畑津吉則
畑津吉則2 年前
ここの桜は、立派です。
まだ、冬なので写真の通りですが、春3月終わりには、それはそれは見事です。
Eiji Kondou
Eiji Kondou2 年前
山門をくぐり、駐車場の砂利を通り抜けると石柱があり、その正面に本殿があります。
本殿前にパンフレットが置かれており自由に持ち帰りできますが、本殿への立ち入りは開放されてない雰囲気でした。
駐車場は普通車が10台ほど駐められる広さです。
昭和五年、当山第十五代康州玄熈和尚住職の際に改築、ご本尊は釈迦牟尼仏となります。
正面の扁額は享和元年(1801年)、妙心寺第四百四十世海門和尚の筆によるものです。
ここ近松寺は、山名:瑞鳳山(ずいほうざん)、宗派:臨済宗、南禅寺派の寺院で、寺伝によれば、後二條天皇の乾元元年(1302)創建と伝えられています。
降って天文年間(1532~1554)、岸嶽城主波多三河守親は博多聖福寺の僧湖心碩鼎(こしんせきてい)の高徳を慕い、満島山(現在の唐津城内)に近松寺を再建し開祖として迎えたと伝えられています。
この寺は、天正二年(1574)に兵火に遭い、焼失しました。文禄(ぶんろく)二年(1593)、豊臣政権によって波多三河守親が改易になり、寺沢広高が波多氏の後を受けて唐津地方の代官になりました。そこで、広高は博多聖福寺にいた耳峯玄熊(じほうげんゆう)を招き、中国の明や朝鮮との外交を任せました。耳峯禅師(じほうぜんじ)は、よくその任に応えると共に慶長三年(1598)には祖師湖心碩鼎(そしこしんせきてい)ゆかりの近松寺を現在地に再興しました。寺沢広高は耳峯禅師の功績に報いるために寺田百石と山林を寺産として贈り、菩提寺として篤く帰依しました。
寺沢氏二代目の堅高(かたたか)が江戸藩邸で死去すると嗣子がなく寺沢氏は断絶になり、寺運も衰退に向いました。第四世遠室明超(えんしつみょうちょう)はこれを憂い徳川家光に近松寺の隆盛を懇請しました。やがて、これが聞き届けられ百石の御朱印を賜り、旧観を維持する事ができるようになりました。
その後、譜代の大名大久保・松平・土井・水野・小笠原各氏の唐津入部となりましたが、歴代の城主は当寺を帰依しました。中でも文政元年(1818)に入部した小笠原公は寺田百石を寄進して、菩提寺として深く帰依しました。
(2018/06/20)
S kaku
S kaku2 年前
新撰組の興味のある方、もし唐津市を訪れる事があるなら、是非立ち寄って頂きたいです。
唐津藩悲劇のプリンス、小笠原伴之助様のお墓が、同じく唐津藩士で共に新撰組に参加し付き添い、最後まで闘った方々のお墓と共にあります。
お寺の西側で、先祖の方々とも同じエリアです。

遠く、北海道函館(箱館)まで赴き、亡くなった方、生き延びて再び唐津の地に戻って来れた方。
本当に波乱に満ちた生涯だった事、懸命に生きて来られた事に、改めて尊崇の念を抱く次第です。

この様に今も残して供養して頂けている事に、感謝申し上げたいと思います。

※函館近郊の七飯にある宝琳寺にあったお墓を、明治6年にこちらに納骨されたのが有力視されています。
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