/Tsushima/仏教寺院

長寿院

日本, 〒817-0012 長崎県対馬市厳原町日吉313

長寿院
仏教寺院
3.9
9 レビュー
8 コメント
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675R+GW 対馬市, 日本、長崎県
+81 920-52-0846
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ららんたこら
ららんたこら2 年前
◆雨森芳洲の墓所を管理している長寿院は、恥ずべき現状を、どのように考えているのか。糾弾したい気持ちでいっぱいです。

◆対馬市が、観光案内に必ず紹介している歴史上の第一の人物が、雨森芳洲です。

◆平成29年、ユネスコは、江戸時代の「朝鮮通信使に関する記録」、日韓合わせて111件333点にのぼる世界の記憶(世界記憶遺産)に登録しました。この江戸時代に日本と朝鮮の間に立ち、活躍したのが雨森芳洲です。

◆その墓所は、対馬市厳原町日吉の長寿院にあるのですが、令和4年4月に訪問した際は、墓所に通じる参道は、荒廃するに任せてあり、竹林は一切の手入れをされず、かつてコンクリートの簡易舗装をしていた路面は、崩壊していて、歩行に危険を生じるほどです。また墓所の手入れも行き届いていません。

◆墓所は久しく清掃された気配がなく、その証拠に、墓前に供えている銭は、錆て朽ち果て、墓石は汚れ切っています。しかも、仏教徒なら常識である、生花を供えるべき献花は、かなり前に100円ショップで買い集めた、ほこりまみれの合成樹脂製の造花(写真では一見きれいに写っていますが)でした。みじめすぎます。

◆一義的に、管理不行き届きの非は、長寿院にあると思います。住職は大いに恥じてください。加えて、墓所を観光資源として、パンフレットなどに誇らしげに紹介している対馬市にも責任の一端があると思います。

◆このような惨状を放置している長寿院は、雨森芳洲を顕彰する資格がありません。墓所一帯を自治体に無償譲渡するなど、適正に管理できるようにしてほしいです。

◆また対馬市も、雨森芳洲を顕彰するにふさわしい維持管理ができるよう長寿院と協議して、必要であれば支援するべきです。

◆雨森芳洲の生誕地である、滋賀県長浜市高月町の方々が、この惨状を目にすれば悲しまれると思います。私なら激怒します。

◆長寿院は、臨済宗南禅寺派という檀家がいない宗派のため、寺院経営が苦しいとは思います。ですが、いやしくも境内を管理しているのですから、家族総出ででも清掃したらどうなのでしょう。

◆それができないのであれば、対馬市に相談するなり、有志を募って竹林の維持管理、参道の補修、墓前の定期的な清掃を実行してください。

◆遠路はるばる雨森芳洲の墓前にお参りに訪れた参拝者に失望を与えることは、対馬市民として恥ずべきことです。
H Y
H Y2 年前
お寺の裏山に雨森芳洲のお墓があります。

墓地に咲いていた金木犀がきれいで香りが良かったです。
T t
T t2 年前
ご先祖様をご供養頂いております。素敵な寺院です。ご住職はとても親切な方で感謝しかありません。
臨済宗南禅寺派のお寺さんです。
雨森芳洲さんという、理想的な日韓の外交を追求された方のお墓もあります。
康夫大平
康夫大平2 年前
長寿院 盛淳(ちょうじゅいん もりあつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。

島津氏の家臣。蒲生地頭。

本来は畠山姓で、長寿院は院号。(畠山盛淳が正式な名)

その後、

還俗したが、

出家時の名乗りのまま有名になった。

後年、

子・忠栄が屋敷を阿多甚左衛門に譲与して出家したため、

阿多吉房と呼ばれ、

以降子孫は阿多氏を称している

伊達政宗と因縁深い

畠山家と同じ一族だが伊達政宗に畠山家が滅ぼされた後

島津家に従った👇

無惨な畠山一族の当主の最期

天文21年(1552年)、

二本松氏第8代当主・二本松義国の嫡男として生まれる。

天正8年(1580年)に父・義国が死去する以前には家督を継いでいたものと思われる。

天正13年(1585年)、

伊達政宗が岳父・田村清顕と共に大内定綱を攻めると、

定綱と姻戚関係にあった義継も政宗から攻撃を受けた。

義継は政宗に降伏を申し出たが政宗は義継を許さず、

二本松付近のわずかな土地を除いて所領をことごとく没収し、

大名としての地位を維持できない状況にまで追い込もうとした。

この条件は政宗の父で隠居の輝宗や伊達成実らの斡旋で緩和されたものの、

政宗を深く恨んだ義継は、

10月8日に宮森城に居た輝宗の許へ参上した際に、

輝宗を拉致して二本松城へ連れ去ろうとしたが、

途中の高田原で政宗に追いつかれ、

輝宗と刺し違えて死んだとも、

あるいはこの時輝宗もろとも射殺されたともいう(粟之巣の変事)。

享年34。

義継の遺体は政宗により斬り刻まれ、

その上、

藤蔓で繋ぎ合わせて無残に吊るされたという。

畠山盛淳は、これを見届け各地をさまよい

薩摩にたどり着き島津家に従った
樺島悦三
樺島悦三2 年前
日本を代表する雨森芳州儒学者を始め家族の墓地があり毎年この寺のある日吉地区民にて芳州会の名でお祭りが催されている
島雄渉
島雄渉2 年前
知り合いのお墓が有ります。
綺麗にしていてくれています。
おやじ
おやじ2 年前
石垣が綺麗になっとりました👌
阿比留剛
阿比留剛2 年前
あまのもりほうしゅうの墓碑のあるお寺
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