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聚楽第址

日本, 〒602-8257 京都府京都市上京区新元町222, 大宮通

聚楽第址
史跡
3.3
39 レビュー
8 コメント
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2PGX+2H 京都市, 日本、京都府
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Masahiro maeda
Masahiro maeda2 年前
東と西の濠(ほり)の位置を示す石碑があるのみ。"趾"と言う様に、ここには1587年頃、秀吉の建てた豪華絢爛な城郭があった。秀吉は太政大臣としてここで政務を行った。二条駅からは徒歩20分、バスは大宮中立売バス停からアクセス可。
白ベイ
白ベイ2 年前
上京区中立売通大宮通北東角に「聚楽第趾」があったことを示す石碑と説明書きがあります。向かい側がハローワーク西陣になるので分かり易い場所になります。
中立売通側(南)に「聚楽第址」大宮通側(東)に「此付近大内裏及聚楽第東濠跡」と刻まれています。

聚楽第(じゅらくてい・じゅらくだい)は、関白となった豊臣秀吉が京都に置いた政庁兼邸宅である。これ以前は、妙顕寺城を拠点としていたが聚楽邸の完成により廃されている。

天正14年(1586年)、平安時代の内裏跡地に築城を開始、翌年完成した。完成後は大阪城より移り住み、本拠としている。

関白職を甥の豊臣秀次に譲った後は、聚楽邸は秀次の邸宅となった。その後、秀吉に嫡子秀頼の誕生により諸説理由はあるが秀次が切腹となり、主のいなくなった聚楽第は破却されています。
完成から破却まで8年間であり不明な点が多い聚楽第ですが、建物の一部は、京都市内のお寺等に移築されていたりするので当時の感じをしることができます。

ここから西に約300mのところにある正親小学校の前には「聚楽第本丸西濠跡」碑があります。
Hiroshi Kyoto
Hiroshi Kyoto2 年前
聚楽第は関白になった豊臣秀吉の政庁兼邸宅として1586年(天正14年)2月に着工され、翌1587年(天正15年)9月に完成したために、妙顕寺城より移りました。
この石碑は、1992年(平成4年)の発掘調査で本丸東堀跡の遺構が見つかり大量の金箔瓦が出土した西陣公共職業安定所の北に建っている聚楽第は現在では地形にわずかに痕跡をとどめる程度で、明確な遺構は残っていません。上記のように移築されたとの伝承がある建造物も少なくありませんが、いまのところ聚楽第の遺構と確認された建造物はありません。ただし、地名には、「須浜町」「須浜池町」「天秤丸町」「山里町」「北之御門町」「高台院町」「東堀町」などなお当時の名残を色濃く残している。また「如水町」「小寺町」「浮田町」「飛弾殿町」「田村備前町」「福島町」「中書町」    「直家町」など秀吉麾下(きか)の武将の名を冠した地名も多く見られます。
石碑の東面には「大内裏及聚楽第東濠跡」と書かれており、ここは東濠跡です。
西の中立売通裏門の石碑は、西濠跡です。
現在、中立売通大宮西北角(本丸東堀があったとされる地点と中立売通裏門南西角(本丸西堀があったとされる地点)の2箇所に『聚楽第址』の石碑があり、昔ここに聚楽第があったことを示しています。聚楽第があったとされる地域一帯は民家が密集していて発掘調査ができない。しかし西陣公共職業安定所(ハローワーク)建て替え工事が行われていた1992年(平成4年)に、工事現場の地中から金箔の付着した瓦約600点が出土した。そこは聚楽第本丸東堀があったとされる地点であり、太閤(豊臣秀吉)ゆかりのデザイン瓦だったため、聚楽第の屋敷に使用されたものと考えられ、2002年(平成14年)6月26日国の重要文化財に指定されました。
Juraku Dai was started in February 1586 (Tensho 14) as the government office and mansion of Toyotomi Hideyoshi, who became Kampaku, and was completed in September 1587 (Tensho 15), so it moved from Myokenji Castle.
This stone monument is located north of the Nishijin Public Employment Security Office, where the remains of the Honmaru Higashibori site were found in an excavation survey in 1992 and a large amount of gold leaf tiles were excavated. There are no clear remains left, just to keep it. There are many buildings that are said to have been relocated as described above, but so far no building has been confirmed to be the remains of Jurakudai.
However, the place names still retain the remnants of those days, such as "Suhama-cho," "Suhama-ike-cho," "Tenbinmaru-cho," "Yamazato-cho," "Kitanogomon-cho," "Kodain-cho," and "Higashihoricho-cho." In addition, place names bearing the name of Hideyoshi's military commander, such as "Nyosuicho," "Koderamachi," "Ukitacho," "Hidandencho," "Tamurabizencho," "Fukushimacho," "Chushocho," and "Naoyacho." Is also often seen.
On the east side of the stone monument, "Heian Palace and Jurakudai East Moat Ruins" is written, and this is the East Moat Ruins.
The stone monument at the back gate of Nakadachiuri-dori in the west is the ruins of Nishimochi.
Currently, there are two stone monuments of "Jurakudai Ruins" at the northwest corner of Omiya, Nakadachiuri (the point where the eastern moat of Honmaru was located) and the southwest corner of the back gate of Nakadachiuri (the point where the west moat of Honmaru was located). It indicates that there was Jurakudai. The area where Jurakudai was said to have been densely populated with private houses and cannot be excavated. However, the reconstruction work of the Nishijin Public Employment Security Office (Hello Work) was being carried out in 1992 (Heisei). In 4th year), about 600 tiles with gold foil were excavated from the ground at the construction site. It is said that there was Jurakudai Honmaru Higashibori, and because it was a design tile related to Taiko (Toyoomi Hidekichi), Jurakudai It is believed that it was used in the mansion of the country, and was designated as a national important cultural property on June 26, 2002.
Image Creation Studio
Image Creation Studio2 年前
住宅街の道の角にポツンと石碑が立っている。ナビがないと分からない。駐車場も無いので写真を撮っただけで、感慨にふけることもできなかった。
居場嘉津治
居場嘉津治2 年前
豊臣秀吉が1586年に翌年完成、京都に造った邸宅けん政庁としてつくっています。前年度に関白職を拝命した関係として御所近くにつくった城で聚楽第といいます。これは、794年の平安京の大内裏のあった場所につくっています。造りは本丸として堀をめぐらして、その周りには秀吉ね重臣の屋敷をかまえていました。黒田考高、上杉景勝、前田利家などの邸跡があり、石碑が立ってます。本丸は北は一条通、南は上長者町、東がは、大宮通、西は、裏門通の大きさになります。聚楽第の石碑は二箇所あり、本丸東堀跡中立売通大宮西北と西堀跡中立売裏門にあります。1586年秀次が高野山の柳の間で切腹しますので、翌年8月より破却されます。部材の多くは伏見城に移転されてます。町毎移転されたので、伏見区に今も聚楽町としてのこってます。また聚楽第の遺構として、大徳寺の唐門、北大路の紫野にあり、特定日のみ公開、西本願寺の飛雲閣、堀川七条にあり、これも特定日のみ公開、妙覚寺の表門、地下鉄烏丸線の鞍馬口駅より3分の場所にあります。また聚楽第にて使われていたと言う梅雨の井とする井戸跡なでがあります。大宮上長者町にあり、また松林寺も3メートルほどの坂になり、沈み込んでます。これが聚楽第の南彫り跡としています。智恵光院通出水にあります。また秀吉は町を整備もしています。当時京都の町は四角の町区割になっていて、回りに家が建っていて、真ん中は、空き地として畑などに使われていました。それの真ん中に2メートルぐらいの路をつくり、家のうらにも家がたつようなり、3万の人口かわ10万に飛躍的にふえています。その当時の路がかんの町通りとして残っている場所があります。五条高倉上がるにあります。入り口には、仏光寺があります。住所も間の町としてのこっています。また秀吉は、京都の街の周りにお土居をつくり、街の安全にも配慮しています。土を掘り直ぐ横にその土ん積み上げてつくられています。高さは8メートルほどありました。仏教大学の北側や天満宮にお土居をみることができます。鞍馬口はお土居の出口があった場所として名前がのこってます。
Norimaki Morimori
Norimaki Morimori2 年前
今は、ここにあったという碑のみで、想いに耽ることもできない感じです。写真だけ撮ってすぐに退散しました。堀の跡とかもっとわかればいいのだけど。
Yoshinori takahashi
Yoshinori takahashi2 年前
太閤殿下の夢の跡。
京都市街に数カ所の石碑のみ残ります。
肯定ペンギン
肯定ペンギン2 年前
大宮中立売の北西角に新しい石碑が建っています。
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