/Miyagi Prefecture/史跡

念南寺古墳群(県指定史跡、古墳時代)

日本, 〒981-4122 宮城県加美郡色麻町四竈官林

念南寺古墳群(県指定史跡、古墳時代)
史跡
3.8
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GVMJ+3G 色麻町, 日本、宮城県
pref.miyagi.jp
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Michiko Takahashi
Michiko Takahashi2 年前
ここは、間違いなくパワースポットです。超お気に入りの場所です。神秘的すぎて怖くなります。

「古代寺院」今から1300年前の奈良時代、蝦夷と呼ばれていたこの地方にも仏教が浸透してきました。それは、中央国家が東北地方を征服する過程で、前衛基地である城柵を各地に造ったからでだんだん庶民にも仏教が広がってきました。当時は、薬師信仰が盛んで、築館町の杉薬師はこの時代のものですし、本町にもこの古い時代に建立された寺院として、袋地区の念南寺(ねやじ)古墳に建つ、根谷地薬師寺や小栗山地区の薬師堂が有名です。その後、今から1200年前の平安時代になると、中央政府から坂上田村麻呂が派遣され、征夷大将軍として、蝦夷の征伐にあたりました。坂上田村麻呂は、観音信仰によって庶民の支配を優位に進めようと考え、各地に寺院を建立しました。涌谷町の崑峯寺や清水地区の清水寺は、この時代のものです。これに続いて、弘法大師の真言宗や最澄の天台宗が全国的に広まり、この地方においても薬師信仰や観音信仰を土台として定着しました。宮崎町の西光寺や小栗山地区の善光寺などがあげられます。このように、仏教は国家戦略として、または庶民の心のよりどころとして次第に浸透してきました。800年前の鎌倉時代には、各地に戦乱や災害が相次ぎ、深刻な社会情勢になると、庶民は心の救いを新たな仏教に求めました。鎌倉新仏教を呼ばれているもので、今も各地に続いている曹洞宗や日蓮宗などは、この時代のものです。

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[埴輪]

日本では、3世紀から8世紀までの500年間が古墳時代と呼ばれています。このうち、大型古墳が築造されたのは、古墳時代中期、今から1500年前のことですが、本町にもこの時代のものとして前方後円墳の「念南寺古墳(ねやじこふん)」、円墳「御山古墳(おやまこふん)」の2つの大型古墳があります。これらの古墳は、当時、この地方を治めていた豪族のものと思われますが、その規模からみて、かなり強大な権力があった人のようです。さて、こうした大型古墳は、周囲に埴輪が設置されているという、小型古墳にはない特徴があります。埴輪は、粘土で型を作って焼いたもので、人物、動物、建物をかたどった形象埴輪、円筒埴輪、朝顔型埴輪の3種類に分類でき、専門の職人(渡来人)によって、日本にもたらされたとも言われています。埴輪がなぜ置かれたかについては、殉死者の代わりに置かれたとか、権力の象徴として置かれた、古墳の境界を明らかにするため置かれた、などの説があります。町内では、御山古墳から円筒埴輪が、また、念南寺古墳から朝顔型埴輪がそれぞれ出土しています。

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「懸仏(かけぼとけ)」

古くから鏡には神が宿るとされ、鏡は神社で祀られててきました。今から1200年前の平安時代には、それぞれ別なものであった神と仏の信仰が、仏は神が姿を変えたものだと、考えられるようになり(神仏習合)、そのため、お寺や神社には、いろいろなものが奉納されるようになりました。この懸仏も自分や家族が極楽浄土に生まれかわることを祈ったりまた、この世の幸福を願うために神社などに奉納されたものです。はじめは鏡に仏の姿を墨で書いたり、彫り込んだりしていましたが、しだいに仏像を取り付けたものに変わっていきました。懸仏は直径15cmから1mくらいまであり、銅製や木製のものが多いようです。町内には、懸仏が4体ほど確認できますが、そのうち上郷地区の「色麻古墳群」から発見されたものは。円形の台座つきの直径12cmの銅板製のものです。平面中央には観音像とその両面には花瓶が張り付いていて、取り付け用のフックがあることから、壁面に懸けていたものです。鎌倉時代から室町時代には盛んに作られていましたが、その後衰退していき、現在残っているものはわずかになっています。
Nakajima osamu (なかちゃん)
Nakajima osamu (なかちゃん)2 年前
宮城県北部にも、前方後円墳があったのには驚きました。森の中にあるので全体像が見えないのが、残念な部分です。ある程度、杉の木を伐採できれば、全体像が現れてそれなりの価値観が出てくるのではと思うのですが、そこまでお金を掛ける価値があるのかは、素人なので判断できない。
Kei Nantonaku
Kei Nantonaku2 年前
鳴瀬川右岸の標高40mほどの小丘陵上に立地する古墳群で、主軸長約52mの前方後円墳1基と径10m前後の円墳22基からなり、各古墳は保存が良い。前方後円墳は小丘陵の頂部にあり、墳頂からは北側に広がる大崎平野を一望することができる。
本古墳群については発掘調査が行われていないため、具体的内容は不明であるが、前方後円墳については朝顔形・円筒埴輪が採集されており、古墳時代中期(5世紀頃)を中心とした時期に築造されたもので、規模等から推してこの地域の首長層の墓と考えられる。
大崎平野周辺は本格的な古墳が築造された北限の地域であり、本古墳群は単に地域の古墳文化の解明のみならず、北辺域の古墳文化の実態を解明するうえでも重要な位置を占めている。
土沢英良
土沢英良2 年前
念南寺1号墳からは石製模造品が出土。
ぽーれん!
ぽーれん!2 年前
とても静かな場所、前方後円墳です
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